七尾まつり最新情報
益田天満宮
益田天満宮
益田氏(ますだし)は、石見国益田を本拠としていた武家。本姓は藤原氏といわれる。はじめ浜田の御神本に居館を構えたことから御神本氏(みかもとし)を称した。後に毛利氏に臣従し、関ヶ原の戦い後は長門国須佐を領した。
一族の通字は「兼」。家紋は「上り藤に久の字」。
益田七尾城主八代益田兼見は長慶天皇の応安七年(1374)、今から六百数十年前、寺塔を中須から清滝山下(現門前町)に移転改築し、従来の名称「安福寺」を改め「万福寺」とし自らの菩提寺とした(現住職神一倫道氏)。益田兼見か更に当山鎮護の神として天満宮を境内の西北に当たる中門外益田川堤の側に建造した。この建造については次のような経緯がある。ある年、益田兼見が東国より船で益田へ下向のとき、大晦日の夜に中須浦に着船し安福寺へより越年した。この時天神への信仰を大いに深め間もなく天満宮を建造した。
益田天満宮大小行司
益田大行司・小行司(通称大小行司、益田天満宮大小行司、現「益田七尾まつり」)は益田市益田地区の年間最大行事であり、令和元年は第百二十九代目にあたり約130年の伝統をもつ文化的行事です。
大小行司は菅原道真(すがはらみちざね)公を尊敬する人々の念願から起こった行事です。菅原道真が大宰府へ配流の途次、藤原時平の刺客に襲われた時、道真を警護して安全に送ったという話を、山口県防府市の天満宮の祭事にとり入れた。この時の警護の主役二名が大行司・小行司ですです。
菅原道真(すがはらみちざね)公を祭った「天満宮神社」に多く存在する行事。
益田近辺では、真砂(まさご)町の波田天満宮に防府天満宮と同じく江戸時代からあった。
益田天満宮では明治16年に防府天満宮の行事を移入して始まり130年続いている。
大小行司の行列には、やっこ・先乗・大行司・小行司等が練り歩いた。
菅原公が筑紫への配流の途次、防府宮市に宿泊した時、政敵藤原時平の内命を受けた刺客が彼の身辺に肉迫した時、従者の告によって悟った菅原公は未明に寝所から起き上がり大宰府へ向かって逸走した。
その際、菅原公の警護役は狼狽の余り、竿に掛けたままの装束を咄嗟に着て御伴したという伝説に基づいたもので、大小行司は菅原公往昔の遭難説を追懐するため防府宮市の地区民によって後世執行するに至った地方行事であった。
この行事中には参勤交代当時の大名行列を多分に加味して居ることから、江戸時代以降に始まったものらしい。
大小行司の行列には、やっこ・先乗・大行司・先乗・小行司の順で神幸行列の前を練ることになっている。やっこの手には往借の大名行列そのままの鳥毛・笠槍・長持・挟箱・弓矢・太刀・草履等を携えて並び、それに伴う唄として宿入りを歌う習慣を持っている。
益田天満宮における初代の大行司を勤めたものは、大行司を防府宮市から移入したと言われている益田島田家の先々代島田弥三郎であった。二代から四代までは遠田出身の者であった。